この本を書き始めたのは2年前。
オリンピックで改造の進む東京の風景の変化に、小さな組織である僕らや、個人がコミットする機会があまりにないことに違和感を覚えたのがきっかけだった。
SNSなどで社会に対し直接、個人が関わる可能性は増しているように見えるが、こと都市計画においては巨大資本と個人との乖離は深まっているようにさえ思えた。あらゆるオリンピック関連施設や再開発は、いつの間にかにでき上がってゆく。専門家でもあり、いろんな都市政策に関わっている僕でもそうなのだから、市民から見るとその印象はさらに強いのではないだろうか。
この本は、この状況へのアンチテーゼとして、オリンピックの閉会式の翌日に出版する予定だった。
巨大さではなく小ささを、集中ではなく分散を、大資本ではなく個人を、固定よりも可変性を武器にした建築の集積で、都市の風景を変えて行く方法だってあることを示そうと思っていた。
周知のように、2020年開催のオリンピックはいったん流れてしまい、出版のタイミングは失われがっかりしていた。
しかし今、コロナ禍の公園や道路で起こっている出来事を見ていると、この本が新たな意味を持ち始めたかもしれないと思うようになった。
しばらく家の中に閉じ込められてしまった僕らは、改めて都市のオープンスペースの大切さを再認識。風や太陽を求め積極的に屋外に出ている。すると、公園や川沿いの遊歩道に、いい感じの距離感で人々が寛いでいる。賑やかすぎず、かといって寂しげでもない。なんとなく調和がとれている。 敷物を広げ、自分の小さな領域を確保しながら読書をする人。キャンプ用の折りたたみ椅子を持ち込んで語り合っているカップル。周りに気を使いながら子どもとキャッチボールをしている親子。 みんなちょっとした道具や工夫で自分たちの居場所をつくっている。パブリックの中に、それぞれの小さなプライベートが内包され、適度な距離感で点在している。
そんな風景を眺めながら、ふと感じた。これが次の時代の都市の理想を示すワンシーンなのではないか。同じ空の下で、それぞれが小さく仮設的な領域をつくり、自由に、気ままに、自分たちの時間と空間を味わっている、穏やかで民主的な風景。 テンポラリーアーキテクチャーが本質的に問いかけたかったのは、このことだったはずだ。
今後、否応なく経済状態は逼迫するだろう。オリンピックへの投資を回収する事はかなり困難だろうし、コロナ禍の経済的ダメージは予測すらできない。もちろん、なんとかそれを乗り越えていかなければならないが。
そんな時代の現実的な方法としての仮設建築や社会実験。こんな状況だからこそ、安く軽く早く、そして楽しく都市の風景を変えていこうじゃないの、そんな気分だ。
開き直りのようにも見えるけれど、こんな時だからこそまずやってみる。そして社会や環境の反応を見る、間違いがあれば修正する、もっと良い方法があればすかさず組み合わせる、それを楽しくスピーディに繰り返す。 その実験の先にしか僕らのリアルな都市の未来の風景は見えてこない。
安定的かもしれないが、誰かによって与えられた都市なんてつまらない。 時代の変わり目は、いつも不確実で不安定。 だからこその仮設建築や暫定利用である。試行錯誤を繰り返しながら、少しずつつくってゆく。そのプロセスに自分も関わっている実感がある都市で暮らしたい。
テンポラリーアーキテクチャーは、都市を自分たちのものにするための道具であり、手段である。
民主的な建築は可能か? 新著『テンポラリーアーキテクチャー 仮設建築と社会実験』で問いたかったこと
2020.11.27 | TEXT