北京通いが続いている。
北京の中心を天安門だとすると、そこから車で東へ30分程度走ったXing Longという郊外の街で、オフィスと商業施設の設計をしている。広野に次々とビルが建っていく。東京では「R」とか言っている僕も、この街では思いっきりスクラップ・アンド・ビルドの真っただ中。
先月は追い込みで、北京に一週間ほど滞在していた。仕事相手のオフィスにプロジェクトルームをもらい、毎日そこに通って仕事をした。とても気持ちのいい部屋でうちのスタッフは「もう日本橋の倉庫になんて戻れない……」と、陽の注ぐ窓のそばでのたまっていた。
窓からは北京の郊外の風景と大きな庭が見えている。そこに気になって仕方がない風景があった。いつも同じ男が庭にたたずんでいるのだ。
男は、毎日朝早くから芝生に水を撒き、芝の根を踏みながら様子を見る。午後になるともう一度軽めに水を撒き、そしてまた丁寧に芝の様子を眺め続ける。その風景は僕がいた5日間、毎日きちっと続いた。休日、風景のなかに男がいないと、言いようもない欠落感があった。
水を撒く人。こういう職業もあるのだ……。 人にはいろいろな種類のやるべきことがある。与えられた仕事を毎日、淡々と、丁寧に繰り返す。その行為はどこか哲学的にも見えたりして……。なぜか妙に心地よかった。
北京には大量の人口が流入し、労働者は余っている。
僕らが泊まっていたのは、仕事相手が用意してくれたサービスアパートメント。彼らが開発したマンションの一部を、来客者用のホテルがわりとして使っているようだった。その分譲マンションのすべてのエレベーターにエレベーターガールがいた。マンション用なのでただでさえ小さく、狭い。そのなかで「3階」と僕が言うと、彼女たちは「3」のボタンを押す。「シェンシェ」とお礼を言う。「ツァイツェン(再見)」と、さよならを言ってエレベーターを出ていく。それが数日続くと、僕の顔を見ただけで黙って「3」のボタンを押してくれるようになった。彼女たちはすごく若く、狭いエレベーターのなかで椅子に座っていて、ほっぺたが健康的に赤い。
この街では雇用を強引につくっているのがよくわかる。通りは人で溢れている。僕らがいたのは郊外だったから、夜にもなると光は少なくかなり暗い。激しい工事のせいか、春風にのって飛んでくる黄砂のせいなのか、いつも埃っぽくかすんでいる。その薄暗がりのなか目を凝らしてよく見ると、屋台が並んでいたり、屋外に台を持ち出してビリヤードをやっていたり、髪を切っていたり……さまざまな姿が浮かび上がる。しかし、瞬く間にそんな風景は失われていくのだろう。怒濤のように動く国家、その一端をかいま見る。水撒く人も、いずれはいなくなる。
レム・コールハースについて書かれたドキュメンタリー『行動主義』(瀧口範子著・TOTO出版)を、早朝の北京空港の滑走路が一望できるカフェで読んでいた。ひどく慌ただしい本で、まったく落ち着かない人生を走り続けている人間の物語だった。それはそれで爽快なものだった。この世界では水撒きもコールハースも一緒に生きている。当たり前。
どうでもいいが、そこのカフェオレは60元もする。800円近い。市内では火鍋(中国のしゃぶしゃぶ)をたらふく食べれる金額だ。うかつだった。
会社名を「Open A」にしようと、ふと思った。今までは都合上「ババアトリエ」なんて言っていたんだけど、どこに言ってもAの馬場としか言われないし、そもそも個人名が冠してあるのは僕らしくもないと思っていた。水撒き男とコールハースを同時に見てしまったことが、スイッチを押したのだろうか。僕の命題というか目標みたいなものをそのまま付けちまおう。
「建築よ開け」
司会者やナビゲーターが僕を紹介しようとするとき、みんな悩んで、モゴモゴと「いろんなことをやってる人です」なんて、申し訳なさそうに言うことが多い。そのなかで「うまいこと表現するなあっ」って思ったのが、宮城大学の本江さん。抜群に言葉のセンスのある人だが、「う~ん。建築とその周辺の領域の活性面にいるような人です」。なるほど、そうだったのか。
次々に青空に飛び立っていく飛行機の数を数えながら、ぼんやりそんなことを考えていた。
最後に、うちの事務所(この日からOpen A)で仕事をしている男と北京のディベロッパーの女の子の間で、小さな恋が芽生えているというウワサを聞いた。1カ月以上も常駐しいているとそういうこともあるだろう。北京は今、とてもホットなのだ。
*こちらの記事はWEBマガジン「REAL TOKYO」に「水を撒く人」というタイトルで掲載された記事です。
(文=馬場正尊)