人類は全員が変態だと思う。
僕は昔からダイアン・アーバスという写真家が好きだったのだけど、彼女はフリークスと呼ばれる、ちょっと異様な身体を持つ人々をとり続けた。でも、それは偶然にもその部分が身体の外に表出しているだけで、誰しもそういう部分を持っている。それが内部か外部か程度の差異しかないんじゃないだろうか。フリークスは社会や自分の鏡のようだ。それを撮り続けたアーバスは自殺してしまった。
よくよく見てみると、東京にはそんな土地がたくさんある。あるだけではなく、売っていたりもする。小さすぎて車一台も停まらないような土地、細長くて廊下のような土地、入口の幅は数十センチで奥は広々とした土地、決して新しい建物を建ててはいけない土地・・・売っているのは本当に不思議だ。まあ、たいがいの場合は極端に安く、それでも売れ残っている。新しくモノを建てることができない土地を買う人は、そうは現れない、当たり前だ。
僕は、そういった場所が気になって仕方がなくなり、いつしかフリークスと呼ぶようになった。彼らをじっと見て、その地形がいったいどういった経緯でできてしまったのかを想像するのが好きになった。
六本木ヒルズのような巨大なビルがニョキニョキ建ち上がっていく不気味な風景や、ある日突然誰も気が付かないうちに代々木にハリボテのエンパイアステートビルが建っていたりするシュールな風景もいい。逆に密集した街区が削られながらありえない地形をつくっていくのも、また同じような迫力がある。ゼンリンの住宅地図は物語の宝庫だ。
ある日、議会で新しい計画道路を通すことが決まり、大半の部分をバッサリ収用され10平米くらいの三角形の土地が残ってしまっている。980万円。高いのか安いのかまったくわからない。
道路に数十センチの幅しか面していない土地、しかもそこにはボロ家が建っていて「再建築不可」、すなわち新しい建物を建ててはいけないことになっている。麻布で800万円。これまた高いのか安いのかわからない。
東京を丁寧に見ていくと、こういう異形の地形がたくさんある。これらの地形は自然の力で曲げられる大地と同じように、人の力でねじ曲げられてしまう性格と同じように、制度やシステムや、絡み合う欲望や利害によってゆっくり力が掛けられ、次第に変形していったものだ。
その土地の経緯を見ることは、その街の歴史を見るようである。東京を見るようである。
アーティストの中村政人さんの家もフリークスだった。
『広告』の最新号で取材をさせてもらった。そこにも東京のリアリティがつまっていた。四方をビルや民家に囲まれ、道路に通じるのは幅2m程度の路地だけ。もっとも隣に近接している部分は隣地距離が数センチ。再建築不可。立面図がほとんどない家。
古本屋カフェのNonもフリークスだった。四畳半のカフェ。それでもちゃんと成り立っている、どころかなんとも心地いい空間なのだ。渋谷の、のんべい横町の居酒屋と居酒屋のスキマにある。そこにスッポリ収まっている。この場合はとても素直なフリークスではある。
欧米のいくつかの大都市ではスキマという概念が希薄だ。というのは建物もびっしり建ち、スキマはあるにしても猫さえ通れない場合が多いから。敷地境界線が線的に存在している。イスラムのいくつかの大都市にいたっては、スキマどころか境界さえない。隣の家の外壁が我が家の内壁になっている。そうやって増築をしてゆくので、結果としてモロッコのフェズに代表されるような迷路の街ができあがる。彼らには、スキマという概念がない。秩序がまったくないという意味で見事に統一感があり、それがしっかりとしたイスラムの秩序のように思える。この街の航空写真は、均質で美しい。
東京はフリークスが点在する。
そこに東京が写り込む。
*こちらの記事はWEBマガジン「REAL TOKYO」に「異形の地形」というタイトルで掲載された記事です。
(文=馬場正尊)