ありえたかもしれない、失われた風景

2010.2.25 | TEXT

この写真は一瞬、日本のなつかしい田舎の風景のように見える。しかし残念ながらそうではない。現代のオーストリア、フォアアールベルグという山間の街。先日、オーストリアの建築家、ヘルマン・カフマンカず見せてくれた一枚だ。僕にはそれが「もしかすると、ありえたかもしれない日本の風景」 のように思えたのだ。でも 実際の郊外(もしくは地方都市)は、こうなっていない。

今、日本の郊外や地方都市を見渡すと、プラスチックでできた疑似レンガのサイディング壁が、色とりどり統ーなく並んでいる。成田エクスプレスで都心ヘ移動する車窓を眺めると、いつもがっかりし た気分になる。そこには中途半端でベラペラな風景が広カf っているから。いっそ高密度にノイズが集積した都心部はいい。

それは東京のカオス、都市の活力の象徴だ。しかし途中の住宅地の風景は、海外から帰って客観化された目には悲しく写る。

この風景は、日本人が求めたものだったのだろうか。

世界的に見ても、住宅が、ここまで完成した「商品J として売られているのは日本だけだ。それは資本力を持った住宅メーカーの影響力が大きい。技術的な安定性、工業化、コストを抑えるなどの努力によって日本の住宅メーカーは大きなシェアを得た。

同時にそのプロセスのなかで、停滞したのは住み手のクリエイティビティと街全体の風景への意識。人々はすでにあるプランを買い、供給される住宅の差異は外壁のサイディングや建具の細かな遣いで、それらをカタログの中から選ぶだけとなった。

今、私たちは風景再考の機会を与えら れているのではないか。 直面している諸問題は、いやおうなく街の全体風景について考えなければならないからだ。環境問題を相手にしようとしたとき、C02 削減の数値目標を実現しようとすれば、おのずと低層住宅の構造や外壁材は木に決まってくる。地球のことを考えることは、とりも直さず地域のこと、自然のこと、総合的な風景について考えることにつながる。

人口減少や都市間競争力の低下を懸念すれば、東京都心の容積率はもっと上げ、逆に郊外や地方の容積はさらに余ることになる。空洞化したビルが点在する悲しい風景より、写真のような家々が適度な 距離感で点在する、緑豊かな風景が美しいと思えるようになる。

最近思うのは、豊かさの尺度に格差があってもいいのではないか、ということ。東京への一極集中は是認し、逆に地方や郊外は到底無理な発展を目指すのではなく、適切な過疎化を積極的に捉え、それを違う価値に転換すべきだ。

私たちは人生の中で、その折々に住む場所を選択することができるのだから。

 

*こちらの記事は季刊誌『オルタナ17号(2010年1月発売)」に「ありえたかもしれない、失われた風景」というタイトルで掲載された記事です。

オルタナ

(文=馬場正尊)