山崎亮と出会ったのは3年ほど前。雑誌の対談だった。「ランドスケープデザイナー」という肩書ではあったが、実際に手を動かすデザイン作業からは距離を置いている、という不思議な立場に、最初は違和感を覚えた。もちろん、その頃はまだ「コミュニティデザイン」という単語はなかった。
対談を進めていくうちに、彼が社会に対して取ろうとしているスタンスは、時代が欲していることそのものだということに気が付き始める。
僕はちょうど公共空間のあり方について問題意識を強めていた。たとえば日本の児童公聞は子供たちが安心して楽しく遊べるような環境になっていない。「ボール遊びはやめましょう」と貼紙があったり…。じゃあこの空間では誰がいったい何をするんだ?公共空聞が公共のためのものではなく、あたかも行政が所有しているかのようなスタンスで管理されていたことに強い違和感を覚えていた。「管轄」という単語でそれは説明されているのだが、それはもはや公共のための空間とは呼べない。そう切り出したときに、山崎亮は「その問題意識はまさに僕が抱いているのと同じで、僕の仕事はその空間を本来的な意味において公共に戻すためのシステムのデザインです」と言った。
旧来型のデザインを志している限り、そのスタンスから公園デザインを再構築することは難しい。なぜかというと、デザインはカタチをつくることでフィーが発生する業務である限り、アウトプットを「モノ」化しなければならない宿命にあるからだ。しかし公共空間のリプログラミングに必要なのは、何かをつくることではなく、そこに問題を抱えたまま潜んでいるルールやシステムを変えていくこと、見えないデザインだった。気が付きながら、踏み込んだ瞬間に仕事を失うことになるデザイナーは、状況に対し黙認せざるをえなかった。
しかし山崎亮はあえてそこに切り込んでいく。それにより、自らの職能を世の中に理解させ、そして今、定着させようとしている。『コミュニティデザイン』というシンプルなタイトルのこの本は、その気づきから彼がどうやって物事を捉え、どうやって行動し、そして何を得たのか。旧来型のデザインという観念を捨て去ることにより得られた、新しいデザインの姿を明らかにするものだ。
こう書いてしまうと大袈裟に見えるが、実際はドタバタの演劇をみているように、様々な壁にぶつかり、喜んだりショックを受けてたり、その繰り返し。ただそれがないことにはこの職能の姿が見えてはこなかっただろう。
今後、彼の職能を追っていく人々はたくさんいるだろう。ただ彼は最初から何もつくらなかったわけではなく、つくることに対して情熱を持ってぶつかり、その矛盾に立ちすくみ、改めて自分の役割を聞い直したから今の位置に到達している。そこを通過したからこそ見える世界があったのだということは、わかっておくべきだと思う。この本はこの後の時代のあるデザインの指標の一つとして語られていくことになるだろう。
*こちらの記事は季刊誌『ケトル vol.2(2011年8月12日発売)」に「馬場正尊は『コミュニティデザイン』から”見えないデザイン”の役割を知る」というタイトルで掲載された記事です。
(文=馬場正尊)