マイ・ロスト・シティ、バンコク。

2005.10.5 | TEXT

某大手自動車メーカーのショールームの一部を設計するためにバンコクに通っている。この都市は、僕が初めて外国に降り立った場所でもある。19歳のとき、インドへのトランジットで短い滞在をし、その時の印象が今でも強く残っている。着陸のため低空飛行する窓の、どこまでも続く濃い緑の田園と、グダーッと流れる河の巨大さは今でも脳裏に焼き付いていて、日本でない何処かへ着陸する時の興奮のベースになった。その後、あの高揚を越える風景にはなかなか出会えていない。

それ以来、僕はこの都市の空気が好きでヨーロッパへのトランジットなどにはあえて バンコクを経由する。数週間ヨーロッパやイスラムを旅してここに戻ってくるとホッとする。改めて自分がアジアの人間であることを実感することができるのだ。「あ、同じ感性(もしかして、宗教?)を背景に生きてる……」。人が穏やかで、とにかく食べ物がうまい。バンコクは、僕にとってトラベリングライフの玄関のような街だ。

最初の訪問が19歳なので、それから18年が経過していることになる。ほんと、早いなあ。これだけの時間が経っているのだから当たり前なのかもしれないが、街の様相は大きく変わっている。トゥクトゥクという名物三輪車タクシーはほとんどいなくなり、カローラがその替わりを務めている。バーツ(タイの通貨)の暴落による通貨危機で、いったんすべての工事が止まったらしいが、それらのビルが今では完成し摩天楼を形成している。ペラペラのビルのつくりかたは、日本ではあり得ない。異様に細い柱、波打つカーテンウォール……。でも、ビルの足下を見れば、昔と変わらない路上の屋台に人々が溢れていて、そのコントラストが、かろうじてアジアっぽさを残している。今でもやはり僕はそっちの風景にワクワクしてしまう。根っからの貧乏性らしい。

現在のバンコクの屋台にて。 この雑踏感は相変わらず。
現在のバンコクの屋台にて。
この雑踏感は相変わらず。

サマセット・モームが泊まっていた(と、知識だけがあった)オリエンタル・ホテルに、20代の僕、貧乏バックパッカーはもちろん泊まることはできないので、プールサイドのテラス席で、金額に緊張しながらかろうじてアイスクリームだけを頼んでいた。今考えれば、ほんと迷惑な客だったことだろう。今なら、さして引け目も感じずにたたずむことができるかもしれない。でも、そのときの快楽的な空気が貴重な空間体験になり、今、設計しているあらゆる空間は、どこかしら、あっけらかんとしたものになっている気がする。

恥を忍んで言うと、飲み屋のタイ人のお姉さんをナンパして、外に連れ出した。というか、連れ出された。近くの屋台で彼女の友人たち数人とわいわいご飯を食べた。ビュンビュン車が通る道路沿いの屋台だ。言葉は余り通じないが、まあこういう場所で話す単語は、「辛いね」とか、「うまいね」とか、そんなに多くないので十分にコミュニケーションもとれる。まんまと、みんなにおごるハメになったけど、1000円にも満たなかった。その雰囲気は、20年近く前の旅と同じで、妙にうれしかった。慌ただしい仕事モードの出張だと、なかなかこんな時間は過ごせなくなってしまったのだ。

かつてはチャイナタウンの安宿に泊まり、「誰が泊まるんだろう。もったいない……」と思っていたホテルが、今の宿になってしまっている。値段は20倍。まあ、20代前半に南京虫と、洗濯したかどうかも疑わしいシーツとを体験していてよかった。今ならさすがに耐えられそうにない。

十数年前。バンコクの街角と馬場家。 現在、子どもは中3に成長し、嫁も歳をとった。
十数年前。バンコクの街角と馬場家。
現在、子どもは中3に成長し、嫁も歳をとった。

バンコクという都市の経済的発展で、なつかしい街の風景が失われるのと同調するかのように、すべてがチャレンジングだった僕の旅行スタイルもやりにくくなっていく。いやあ、歳とったなあ。と、残念ながら実感しつつ、帰りの飛行機で日記を書いている。

バンコク郊外の水上マーケット
バンコク郊外の水上マーケット

 

*こちらの記事はWEBマガジン「REAL TOKYO」に「マイ・ロスト・シティ、バンコク。」というタイトルで掲載された記事です。

(文=馬場正尊)