故郷の夏、抽象的な時間。

2013.8.19 | TEXT

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佐賀県伊万里市、僕の生家。
田舎の祖母が他界してしばらく経つ。93歳、大往生である。
亡くなってから最初にやってくるお盆(九州では8/13~15)のことを初盆といい、田舎では霊前を丁寧に飾り、親戚や近くに住む人々が故人をしのびにやってくる。アポイントをとって来るのではなく、みんなフラリとやってくる。だから家族は盆の3日間、ずっと家にいてお客さんを迎えなければならない。
こんな風習があったことは知らなかった。帰省の飛行機が混んでいて、予約もとりにくいこの時期に田舎に帰ることはなかったが、「ときには、盆くらい帰ってこい」という命で久々にこの時期を実家の九州・伊万里で過ごした。

僕にとって、その3日間は不思議な体験だった。
次々と知らない人がやってくる。遠い親戚、商店街の人々、故人の友人(ほぼ80代後半)……。時間はゆっくり流れている。
ふらりとご近所さんがお参りに来る。ひとしきり故人の思い出話や、たわいもない世間話をする。最近、街がどう変わったか、自分の体がどれくらい思い通りにならなくなったか、都会に出た息子たちがどれくらい帰ってこないかなどを話している。
訪ねてくる遠い親戚には顔も知らない人も多く、即席の家系図を書きながらつながりを確認する。田舎なので血縁が複雑に絡み合っていて、なかなか全貌が理解できない。まるで横溝正史の小説のようだな、と思いながら、そこにあったであろう人間ドラマを夢想する。

来客は驚くほど多い。3日間、ほとんどひっきりなしに人が訪ねてくる。僕は田舎の家の長男として、日頃とはまったく違う言葉(方言)と内容の会話をした。
中庭に面した部屋で、かすかに通る風を感じ、うっすらと汗をかきながら、座りっぱなしで静かな時間を、ただ過ごす。ケータイで電車の乗り換え案内サイトを確認しながら、分刻みで移動やミーティングを繰り返す日々とは大違いだ。しかし、伊万里の寂れた商店街の日常の時間の流れは、こんなものなのだろう。
そういう日を3日続けながら、僕の東京での日常は、もしかして極めて特殊な街と時間のなかにあるのではないかと思えてきた。そこには隙間なく思考や行動が滑り込んできて、空白の時間が極めて少ない。意味で満たされた日々。

時々、おつかいを頼まれて外を歩く。
亡くなった祖母によく連れていかれた近くのデパートは、あるにはあるのだけど人影はまばら、華やいでいた頃の面影はない。帰りに、よく遊んだ小高い山の上の公園に10数年ぶりに行ってみると、広かったはずの公園が意外なほど小さくて驚いた。遊具は錆び付いて朽ちかけ、売店は物置になり、展望台は立入禁止になっていた。もはや遊びにくる子どもはいない、ぽっかりとした空間になっていた。確実に時間が過ぎているのを、いやおうなしに実感する。

15日の夜、近くの川で精霊流しが行われた。長崎の精霊流しが華やかで有名だが、隣の佐賀県の各地でもそれは行われている。手づくりの舟に提灯や供え物を乗せて川に流す。近所に住んでいる人々がなんとなく集まってきて、柔らかな光は水面に揺れながらゆっくり流れていく様子を眺める。僕も橋の上から、光の帯が遠のくまで追いかけ続けた。うまく表現できないが、なんだか初期化されたような気分になった。
暑い夏の静かな3日間。